紫女

 妾宅から届けられた手紙を、母は一読するなり物も言わずに引き裂いた。

『庭の紫陽花が咲き揃いました。色づいたとて、誰にも愛でられぬのでは不憫です。ぜひお早く見にいらして』

 畳の上に投げつけられた紙片を拾い、真っ二つにされた文章を継ぎ直して、彼と妹は引き攣った顔を見合わせた。そこへ、一度居間を飛び出していった母が戻ってきた。台所から引っ掴んできたのか、干菓子の包みをぐいと押し付けてくる。
「今すぐこれを持って、お前が直談判してきなさい。使用人では埒が明かない。きちんとこちらの意向を呑ませるのですよ。父は臥せっているので、お招きにはあずかれませんと――もう二度と、お顔を合わせることはないでしょうと」
 入り浸りだった妾宅から渋々帰ってきていた父が、風呂場で卒中を起こして、もうひと月になる。看護婦や女中の手に頼ることが多いとはいえ、介病による疲弊はしみのように家族を蝕みつつあった。平素の賢夫人の鷹揚さを失い、血走った目をした母の命令を退けることはできかねて、彼は黙って菓子折りを受け取った。
 彼と妹は口裏を合わせ、懸命にひた隠してきたが、病床の父がうわ言に呼ぶのが妻ではなく、囲った女の名前であることが、ついに母の耳に入ってしまったのかもしれなかった。
「傘をお持ちになった方がよろしいのではないかしら、お兄様」
 玄関まで見送りにきた妹の目の下には、うっすらと青黒く隈が浮いている。縁談もちらほらと舞い込み始めた娘のかんばせが、こんな有様であってよいはずがない。
「要らないよ。長居はしないし、すぐ戻ってくるから」
「でも、もし降られてお風邪でもお召しになったら」
「病人が二人になっちまったら、お前に面倒を掛けることになるね」
「そうですとも」
 幾分やつれた顔で、妹はほほ笑んだ。
「お兄様にまで倒れられたら、わたし、てんてこ舞いです」
「そう言うお前の方が今にも倒れそうだ。親孝行は感心だけれど、ほどほどにして、ちゃんと休養をとりなさい。お父さんのは――こう言ってはなんだが、自業自得なんだから」
「分かっています。分かってはいるのですけれど、自分に言い聞かせれば言い聞かせるほどに、昔のことが思い出されて」
 顔を曇らせ、妹は胸の前で両手をよじり合わせた。
「覚えていらっしゃいます、お兄様? まだ小さい頃、宵宮ではぐれたときのことを。気付いたら、人ごみのなかでわたしとお兄様だけになっていて。恐ろしい人攫いの話など、ばあやがたびたびしていたものだから、わたし、わんわん泣いてしまって、手を繋いでいるお兄様も目を赤くなさって、大袈裟ですけれどもう二度と家には戻れないかと思いました」
「忘れるものか。懐かしいな。僕が必死に帰り道を思い出そうとしているのに、横で誰かさんがぴいぴい泣き喚くんだから、閉口したものだよ」
 彼も思い出し笑いに口元をゆるめた。妹は悲しげに続けた。
「そんなとき、お父様がなりふり構わずに、人を押しのけながらこちらに走っていらして。ああ、よかった、よかったと言いながら、膝をついて抱きしめてくださって。――あの夜、脇目も振らずにわたしたちを捜してくださったお父様とは、もはや別人。分かっています。もうあのお父様はいない、どこにも。でも、わたしが鮮明に覚えているのは、あの日のお父様なのです」
 妹は組み合わせていた手をほどき、彼の腕に触れた。
「お兄様、わたし、何か嫌な予感がするんです。あの女のひとに出会って、お父様はすっかり変わってしまわれた。お父様という宿主を失ったことを知ったら、あの女のひとが次に何を考えるか――わたしは怖い。お兄様、用を済ませたら、必ずすぐに帰っていらして。引きとめられても、決して耳を貸してはだめ。紫陽花がどれほど見事でも、雨が降っていても――お兄様は帰り道をお忘れにならないで」
「疲れているのだね」
 彼はすがりつく妹の手をぽんぽんと叩いた。労りを込めて。
「またあとでゆっくり話そう。少し横になって休みなさい。見合いだって近いのだから、お前も体調を整えておかなければ。大丈夫、お前が午睡から覚めた頃には、帰っているよ」
 曇天の下、傘も持たず出掛けていく彼を、妹は憂わしげに見送った。